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ESSAYS & REVIEWS

[https://note.kohkoku.jp/n/n794bbe6c800b](https://note.kohkoku.jp/n/n794bbe6c800b)

雑誌『広告』著作特集号のなかの「創造性を高める契約書」という記事において、自らの活動理念に基づいた共同著作のあり方について語った写真家のゴッティンガム(Gottingham)。『広告』ウェブサイトのための著作特集号のビジュアル撮影もした彼は、コラボレーション/コミッションワークをベースに新しい写真のあり方を追求している。「作品づくり/受注仕事」、「ライフワーク/ライスワーク」という言葉にとらわれないゴッティンガムの裏側には、もうひとつの人格であり、著作権の観点から支える法人スタジオシンガム(Studio Xxingham)の存在があった。

「ゴッティンガム」とはエイリアスである

——まず整理させてください。プロフィールを拝見すると、「ゴッティンガム」とは、写真家としての名前である同時にソロプロジェクトだと書かれています。これは、どういうことでしょう。

ミュージシャンのエイフェックス・ツイン(Aphex Twin)が、リチャード・D・ジェームス(Richard D. James)のひとつの名義であることは知っている人も多いと思います。彼は、AFXやポリゴン・ウィンドウ(Polygon Window)という様々な名義を使い分けながら活動しています。そんな感じで、僕も写真家としての活動に対応する変名として「ゴッティンガム」というエイリアスを使っているんです。だから、プロジェクト名とも言えますし、ソロプロジェクトなので写真家名とも言える。エイフェックス・ツインも、プロジェクト名でもあるしアーティスト名でもあると言えますからね。

——となると、「ゴッティンガム」というのは、どのようなプロジェクトであると定義されるのでしょうか。

「ネオ応用美術」と自分で定義した概念を写真というメディアで実践することを目指しています。近代絵画などに代表される個人主義をベースにした純粋美術(ファインアート)が、いろいろなものを取り込んでいわゆる「現代美術」へ発展しました。純粋美術と対をなすはずの応用美術(デザイン)の分野でも、海外ではコレクターが収集する応用美術として「コレクタブルデザイン(Collectible Design )」というジャンルが生まれつつあります。ただ、現代の日本国内では純粋美術との関係性が見えづらいのが実情です。その関係性を、純粋/応用、コラボレーション/コミッションの両面から読み直し「応用」の持つ可能性を更新したいと思っています。

アーティストがつくった作品の価値と、プロダクトデザインの素晴らしさは異なる評価軸のなかにありますよね。ただ、お互いに影響を与えあっている。たとえばアンディー・ウォーホルの『キャンベルのスープ缶』のようなポップアートは、デザインの側から「も」美術を更新した試みとも捉えられます。もっと「応用」における主語をフラットに意識してみたいんです。

最近の事例でいうと、韓国をベースに活動する2人組デザインユニットのスルキ&ミン(Sulki & Min)の仕事は、まさに現代的な応用と言えます。BMWグッゲンハイム・ラボ(BMW Guggenheim Lab)のアイデンティティなどを手がける彼らは、自身のスタジオのモットーを「仕事は明確に、喜びを曖昧に」としています。タイポグラフィーの抽象性を「仕事」のなかで応用しながら、自身の作品としても成立するビジュアルをつくりあげているのです。簡単に言えば、ゴッティンガムも「写真という存在がそれだけで作品として成立するのか? そこから何が応用できるのか?」という問いを持ちながら撮影しているとも言えます。

——写真撮影って、たいていの場合は被写体がないと成立しないものじゃないんですか? ゴッティンガムは、いわゆるブツ撮りと言われるようなプロダクトの撮影もしていますよね。

おっしゃるとおり、一般的に写真というのは被写体があって初めて成立するものです。ただ、その撮影の手法には「メディア・オリエンテッド」「コンテンツ・オリエンテッド」という手法におけるグラデーションがあると思っています。簡単に言うと、雑誌やウェブサイト、ポスターなどのような「メディア」の目的を第一に、その素材となるものとして写真を撮るのか、その写真自体が「コンテンツ」として成立することを第一に、メディアの素材以外の可能性も踏まえながら撮影するのかの違いです。

たとえば、家具メーカーのカリモクさんとのお仕事の場合は、カタログをつくることと、写真を展示することだけがまず決まっていました。つまり家具という主題は決まっていましたが、どんなグラフィックをつくるかは決まっていませんでした。だから商品である椅子という被写体ももちろん撮影しましたが、打ち合わせや撮影中に生まれたアイデアをメディアにとらわれることなく、コンテンツ・オリエンテッドな手法で撮影を行なうことができたんです。被写体の背景としてつくった壁だけを撮影したり、コンテンツとして成立することを前提に制作を進めました。  ——なるほど。でも、たとえば展覧会の記録写真などは、あくまでアーカイブとしての手段ですよね。そうした場合もコンテンツとして成立させられるのでしょうか。

じつは展覧会の記録撮影の発注がきても、ほとんどお断りするようにしています。どうしても、著作物を記録するという目的がある以上、美術作品という著作物が中心の写真になってしまいますから。それは、ほかの著作物に依存していて、写真としては作品になりづらい。いや、作品にするのが難しすぎるので、やれていないという言い方が正しいかもしれません。

たとえば、肖像画家として成功したとされるレンブラントは『夜警』という作品を残しています。そもそも、この作品は18名の依頼者の肖像画として納品されたものでした。「肖像」を中心に据えなければならないというメディア・オリエンテッドな状況から出発して、彼はコンテンツ・オリエンテッドな作品を生み出し、歴史のなかで解釈が変わり傑作として認められていったんです。これは絵画の例ですが、写真でも同じことは起こりうると思います。

——ひとくちに写真といっても、それが生まれるときのプロセスによって、大きな違いがあるということですね。

多くの場合、写真というアウトプットは、メディア・オリエンテッドになるか、コンテンツ・オリエンテッドになるか、白か黒かになってしまう場合が多いんですよ。ただ、そこに微妙なグラデーションをつくるのが自分にとってはおもしろいのだと思っています。ひとつのグレーをつくるのではなく、ライトグレーとダークグレーをつくるようなイメージです。

さらに言えば、生まれるビジュアルが違うだけではなく、その後の扱いについても違いが生まれてきます。コンテンツ・オリエンテッドな手法で撮影された写真は、クライアントに納品したら終わり、という訳ではありません。作品として、単体で販売したり、展示できる可能性があります。一方でメディア・オリエンテッドな手法だと、納品したらおしまい、となってしまうことが多いでしょう。

メディア、コンテンツと写真の系譜

——そもそも、コンテンツ・オリエンテッドな手法で写真を撮影しようと思ったきっかけは何なのでしょう。

雑誌編集者を目指していた学生時代に、ヴォルフガング・ティルマンス(Wolfgang Tillmans)の『Freischwimmer』(東京オペラシティ アートギャラリー、2004年)や『Yohji Yamamoto: May I help you?』(原美術館、2004年)といった展覧会を観たことが、原体験になっています。そこではファッション誌などで見覚えがある写真が、展示ではインスタレーションとして別の力を放っていたんです。

その後、写真家として働きはじめてからアンセル・アダムス(Ansel Adams)という20世紀に活躍したアメリカの写真家のコミッションを知りました。ヨセミテ渓谷など自然の写真で有名な、写真史のなかで重要な位置を占めている人いるレジェンドです。実は、彼がアメリカの政府からのコミッションワークとしても風景を撮っていることを知りました。

どうやら、その時代の写真家たちは政府から依頼を受けて当時のアメリカの風景や自然公園を残していたようなんです。写真家の作品にもなるし、クライアントである政府のメリットにもなる。そんな仕事から生まれた写真がコンテンツとして成立している事実に気づかされたんです。  ——ただ、そんな発注は現代だとあまりないような気もします。

現代だと、シェルテンス&アベネス(Scheltens & Abbenes)やロー・エスリッジ(Roe Ethridge)といった海外のアーティストの仕事にも刺激をうけています。シェルテンス&アベネスは自分たちのことをスティルライフ・フォトグラファーと定義して、コミッションワークのなかで様々な作品を残しています。

手法としては、クライアントから与えられた被写体を改造してしまうこともある。様々なブランドのハンガーを彫刻のように組み合わせて撮影をするとか、革製品ブランドの仕事で、皮をつかってモビールをつくるとか。コミッションワークから派生した写真集もありますよ。  ——ロー・エスリッジは、ミュージシャンのアンドリューW.K.の写真を撮っていた人でしたっけ?

鼻血姿のポートレートを『I Get Wet』というアルバムのために撮影していましたね。一見すると極めてメディア・オリエンテッドな作品なんですが、彼は既存のアートワークを再構成して、展示するんですよ。

違うクライアントのために撮った、まったく違う文脈の写真を並べることで、それぞれが作品として立ち現れてくる感じというか。彼の仕事のコンテンツ・オリエンテッドとメディア・オリエンテッドのチューニングは、本当に不思議で、興味を惹かれます。

——先ほどのカリモクさんとのお仕事の例だと、打ち合わせをしながら、コンテンツ・オリエンテッドな手法の可能性を探っていったとおっしゃっていました。ゴッティンガムは、どんな仕事でもコンテンツ・オリエンテッドを目指すんですか?

はい。目指します。もちろん、できない場合もあります。時間や予算の問題もあれば、そもそも発注の意図や関係性の問題もある。でも、コンテンツ・オリエンテッドの方向に持っていくようには努力していますし、あとはバランスの問題だと思っています。

実は、コンテンツ・オリエンテッドかメディア・オリエンテッドの二者択一ではなくて、先ほど、エスリッジの仕事に「チューニング」という言葉を使いましたが、ふたつを自ら調合しているような感覚なんですよ。コンテンツ・オリエンテッドが実現できた・できなかったではないというか……。もし自分の作品にトーンや持ち味のようなものがあるとすれば、使用機材やモチーフ、プロップの選定の結果である以前に、この調合という行為から生まれているような気がしています。

——なるほど。二者択一に逃げずにバランスを取ろうとすること自体が大事なのかもしれませんね。

ソニック・ユース(Sonic Youth)というバンドの『The Destroyed Room: B-Sides and Rarities』という2006年に出たアルバムを事務所にずっと飾っています。アルバムカバーの写真がジェフ・ウォール(Jeff Wall)という巨匠が1978年に制作した作品なんです。

時系列から明らかなのは、ソニック・ユースはウォールが過去に撮影した写真をジャケットにつかったということです。さらにウォールの写真作品のタイトルが『The Destroyed Room』で。つまり、ジェフ・ウォールの作品はカバーに使われただけじゃなくて、タイトルにまでなったということなんですね。自分もそんなメディアに影響を与えられる素晴らしい仕事ができればと、いつでも目に入るようにしていました。

——それは、いい話ですね。

もうひとつおもしろいのは、CDの中面には、この写真作品のトリミングされたビジュアルが並んでレイアウトされていることです。ただ、ウォールは自分の写真作品を、 一部だけ切り取った形で展示したことは1回もないはず。ということは、ウォールはアルバムに写真をトリミングすることを特別に許可したことになる。

写真家とミュージシャンが、写真作品を通じてリスペクトしあっている様子が伝わってくるんです。それを考えるだけで、コンテンツ・オリエンテッドとメディア・オリエンテッドのどちらか一方に逃げずにコラボレーション/コミッションを続けていくぞという気持ちになります。

法的にアートを実践するために

——『広告』では、ご自身が締結されている契約書の雛形を公開されていました。記事では、「写真は、相手の文脈から見ると広告素材、記録写真かもしれない。ただ、僕の文脈では、オリジナルプリントを複写して、商業利用してもらっているという認識」と語られていましたね。

契約書では、納品するデータに加えて、オリジナルプリントという存在を記載することで、写真家としての自立性を確保しようとしました。ただ、先ほど話した「ネオ応用芸術」を実践するためには、それだけでは足りません。どうしても、写真家とは別の人格としてのスタジオシンガムが必要になってくるのです。

——法人ということは、ゴッティンガムの事務所のようなものなのでしょうか。

もともとはそうでした。一般的なクリエイターがやっている会社というイメージですね。ただ、契約書の雛形をつくっていく過程で、ゴッティンガムの著作物を管理する法人として性質を変えていったんです。

——スタジオシンガムは、具体的にはどういったことをされているのですか。

法的な側面からの、ネオ応用芸術の実践ですね。たとえば、制作したビジュアルが作品として扱われるために、著作権などを管理しています。もともと受注仕事の窓口でしかなかったものが、作品の著作権管理をする性格を強めていったんです。

——著作権自体は、ゴッティンガムという写真家がもっているんですよね?

はい。著作権は個人に残し、それをスタジオシンガムが運用するかたちにしています。法人化しているカメラマンの場合、著作権を会社が持ってることが多い。ただ、あくまでもスタジオシンガムが、ゴッティンガムの代理で権利の許諾を行なう建て付けにしています。

規模は違いますが、ミュージシャンの権利の管理を委託されているJASRACと原理的には同じことをしているわけです。契約書の雛形をつくる。画像を納品する。ライセンスを発行して許諾を行なう。この3つが、いまのところいちばん大きなスタジオシンガムの業務内容です。

——この形態の法人は、写真家だと珍しい?

珍しいでしょうね。クリエイターが所属する会社は、大きく分けると4つのパターンがあると思います。まず、個人事業主から法人という形態に移行し、大きくなっていった会社。建築写真で有名な仲佐猛さんが始めたナカサアンドパートナーズやマンガだと鳥山明さんのバードスタジオがイメージしやすいかもしれません。

次に、レップと呼ばれる、エージェントタイプの会社です。クリエイターと外注契約を結び、マネージメント・フィーを取りながら、制作進行、予算管理をするような会社です。これは国内だとアングルマネジメントプロデュース(angle management produce)や株式会社W、海外だとアートアンドコマース(Art + Commerce)やアートパートナー(Art Partner)といった企業が有名です。

そして、プライマリー・ギャラリーという作家の作品を自ら展示・販売するタイプの企業。アニッシュ・カプーア(Anish Kapoor)が所属しているスカイザバスハウスや、草間弥生さんが所属するデイヴィッド・ツヴィルナー(David Zwirner)などをイメージしてもらえるといいのかなと思います。

最後のひとつがスタジオシンガムのような著作権管理法人です。もちろん、それぞれの役割が重なりあっていることも多いので、明確に分類できないかもしれません。なかには、すべてのタイプの企業に所属しているクリエイターもいるでしょう。ただ、役割としてはこの4つが主だと思います。

——そもそも、なぜ著作権管理法人がほしいと思ったんですか?

メディア・オリエンテッドとコンテンツ・オリエンテッドの話に戻るのですが、ゴッティンガムによって制作される写真は「著作物」として独立したものです。だから、クライアントにライセンスを付与する必要がどうしても出てくるんです。そうすると個人事務所としての性格よりも、管理団体としての性格のほうが強くなるなと思ったんです。

たとえばメディア・オリエンテッドを中心にやっている個人事務所の場合だと、撮影した作品の著作権を譲渡する単純な業務委託契約にすればいい。厳密に言えば著作権を譲渡しない場合はライセンス契約を結ぶ必要がありますが、仕事を受ける、対価をもらう、ということが契約書に書かれていれば問題が起きない場合が多いですから。

たとえば『広告』の場合

——先ほど、カリモクの撮影についてお話いただきましたが、今回の『広告』において、どのようにコンテンツ・オリエンテッドの手法で撮影されたのか、ご説明いただいてもよろしいでしょうか。

そもそも、今回の場合だと、博報堂さんから『広告』の書影を訴求素材として使いたいから撮影してほしいという依頼がきました。普通に考えれば、「はい、わかりました」と言って雑誌という著作物がもっている「そのままの魅力」が伝わるような角度やライティングを探っていくことがクライアントから望まれていると思いました。だから、正直言えば、コンテンツ・オリエンテッドな手法で写真が撮りにくいと感じました。

——撮影された写真は、ウェブサイトに掲載されていますが、デザインのレイアウトは撮影した時点で存在していなかったんですか?

ありました。打ち合わせの前にオリジナル版とコピー版が明確に対置されたレイアウトで、メディアとしての強さをかなり感じました。正直なところ、すごくおもしろくて、それどおりにやりたいっていう気持ちもあった。仕上がりとしての最適解を考えていくのも、楽しいですからね。  ゴッティンガムが写真を撮影した『広告』著作特集号ウェブサイト。雑誌そのものを被写体としたメディア・オリエンテッドな写真は、構図を斜俯瞰に振り、背景の照明だけを調整し撮影。コピー機やデザイナーを撮影したコンテンツ・オリエンテッドな写真とのグラデーションを意識したという。

——そこからどうやって、コンテンツ・オリエンテッドな手法の可能性を探っていったのでしょう。

雑誌という形があるオブジェクトから出発すると、どうしてもメディア・オリエンテッドな手法でしか撮影できない写真になってしまいます。だから、どうやって今回の雑誌がもつ「形がない部分」を表現するか、打ち合わせのなかで探っていきました。デザイナーの方に、「どういう思いでデザインしましたか?」といった抽象的な質問を投げかけて、作品をつくるヒントを見つけようとしたんです。

今回の著作特集号にはオリジナル版とコピー版があります。コピー版は実際にコピー機でつくったという話を聞くと、コピー機を単体で作品として撮る余地が生まれてくる。さらに、3人のデザイナーが共同でつくったということを聞けば、3人のデザイナーをモデルとして登場させるアイデアが生まれていきます。  ——先ほどのウェブデザインを意識することはなかったんですか?

どうやったらこのデザインが意図している二項対立をあえて崩したうえで写真家としていかに価値を発揮できるのかということも考えました。3人のデザイナーをモデルにしたのは、被写体が3つだったら、二項対立に入れ込めないだろうという意図もありました。結果、ウェブの制作スタッフがおもしろがってくれて、コピーとオリジナルを繋ぐような配置に、コンテンツ・オリエンテッドな手法で撮影した写真がレイアウトされることになりました。  やっていたのは、ちょっとした「ズラし」の作業なんです。工夫をこらしながら、メディア・オリエンテッド/コンテンツ・オリエンテッドのどちらかに寄せていく。そこにこそ、写真家として仕事があるんだと考えています。

——雑誌とウェブのデザインをもとに、アイデアを膨らませていったということですね。誌面で紹介された契約書を実際に博報堂さんと締結したとお伺いしました。

スタジオシンガムと博報堂さんの間で、契約書を締結しました。そのなかに、「博報堂は、今回撮影した作品のコラボレーションプルーフをつくることができる」というような条項があるので、それも制作しました。

——コラボレーションプルーフ?

写真作品には、オリジナルプリントのエディションが「本物」として存在しています。それに対して、プルーフという「見本」も存在しているんです。もともとは、エディションを売ったあとに作品がアーティストの手元になくなることを防ぐために制作される「アーティストプルーフ」というものが一般的なんです。

ただ、著作特集号の記事で紹介したとおり、スタジオシンガムはクライアントとコラボレーション契約を結ぶので、コラボレーターもプルーフを持つ資格があると考えています。そのため契約書をつくってくれた水野祐さんによる造語が「コラボレーションプルーフ」です。博報堂は、展示やコレクションとして、将来的にもプルーフを活用できます。クライアントがコンテンツをもつことにもメリットがあると思うのです。

——契約書には、ゴッティンガムが第三者にエディションを販売する権利も記載されていますよね? プルーフとエディションの違いは何なのでしょう。

写真をライトボックスに入れたオブジェクトを、エディションとしてコレクターに販売する権利がゴッティンガムにはあります。プルーフというのは、あくまで「見本」であり市場に流通するものではありません。エディションとは異なりますが、役割が違う存在なんです。  ライフワーク/ライスワークの対立を越えて

——10年くらい前から、ライフワーク/ライスワークという議論をみることが多くなりました。稼ぐための仕事と、人生のための作品づくりという分類ですね。その間で揺れ動くことを決意しているゴッティンガムのスタイルはおもしろいですね。

一般的にライスワークの多くがメディア・オリエンテッドにならざるをえない仕事のような気がしています。一部の巨匠だけが、ライスワークのなかでコンテンツ・オリエンテッドな作品づくりができている。逆にライフワークのほとんどが、コンテンツ・オリエンテッドな手法でつくられていると思います。だから、自由に作品をつくりたいという前提が世の中にはある気がしています。

——巨匠になれば、自分のやりたい作品がそのまま広告に使われる。それを目指すべきだという考え方は確かにあるような気がします。

ただ、その価値観は絶対ではないと思うんです。コンテンツ・オリエンテッドにこだわっていますが、クライアントに寄り添いながら最適解を求めていく作業も嫌いじゃないんですよ。そこには、他人にコミットする喜びがある。コンテンツ・オリエンテッドな手法をとるためにはどうしても孤独になりがちですし。

巨匠として知られる画家のマーク・ロスコ(Mark Rothko)ですら、メディア・オリエンテッドと言えそうな作品制作におけるやり取りのなかで失敗をしています。1958年にニューヨークのシーグラム・ビルディングのフォーシーズンズレストランの壁画を依頼された彼は、制作途中で作品の納入を拒否しました。諸説ありますが、自身の作品が最適な環境で観賞されない状況に堪えられなかったのではないかと言われています。

そのときに制作された連作は現在、彼の作品を展示するためだけにつくられたDIC川村記念美術館の「ロスコ・ルーム」と呼ばれる空間で観賞できるようになり、彼の傑作のひとつとして評価されています。この事実は逆説的に、ライスワークとライフワークを切り分けることの難しさとおもしろさを教えてくれるような気がしています。

——平日はライスワークとしてクライアント仕事をこなし、週末だけ自分の作品をつくるようなクリエイターのスタイルを、ゴッティンガムはどう捉えていますか?

器用にふたつの仕事のやり方を切り替えることが難しいんですよ。平日で疲れてしまって、週末に作品づくりができなくなるタイプです。スイッチを、赤から青に急に変えることができない。でも、紫ぐらいにならチューニングできるなと思ってるというところですね。

——そうはいっても毎回の仕事のなかで、バランスを取ることの大変さももちろんある気はします。

とあるグラフィックデザイナーさんに、「写真をトリミングされたら嫌ですか?」と聞かれたことがありました。「全然嫌じゃない」と答えたんですが、なぜか納得していない様子だったんです。というのも、ゴッティンガムが時間をかけて世界観を追究ながら撮影しているのに、アウトプットを気にしないことが矛盾にみえたようです。

ただ、ゴッティンガムにはオリジナルプリントという世界観を担保できる物理的な存在がある。だから画像としてイメージの使用を許諾したあとは、オリジナルから離れていくように、むしろ自由に使ってもらいたいと答えました。そうしたら、「拠り所があるんですね」と言われて、確かにそのとおりだと思ったんです。もしオリジナルプリントをもたずに、メディアに出る写真がゴールだと思っていたら、多分ゴッティンガムもメディアによるトリミングにナーバスになっていかもしれません。

——お話をお伺いして、バランスを取るためには、スタジオシンガムの存在が重要なのだと改めて思いました。

スタジオシンガムとコラボレーターが締結する契約書の第1条に、こんな文言があります。「本契約の目的はコラボレーターがスタジオに対して写真家による作品の制作を委託する際の基本的事項について認めるとともに、コラボレーターとスタジオが作品をコラボレーターとスタジオ・写真家各自の領域において最大限に活用することでその利用価値を多義的に高め〜(以下略)」

コラボレーターというのは、クライアントのことです。この文言においては、コラボレーターがメディア・オリエンテッド、写真家がコンテンツ・オリエンテッドをあらわしているといっていいでしょう。両方の側面からもっているものを掛け算して写真の価値を高めていくという理想が表現されています。

もし契約当事者が写真家(ゴッティンガム)とクライアントだけの関係で閉じてしまうと、どうしてもクライアントのほうに寄っていってしまう。だから、どうしても法的な立場からもコンテンツ・オリエンテッドを担ってくれる、別の人格「スタジオシンガム」が必要だったんですよ。

——なるほど。スタジオシンガムがあるからこそ、写真家としてのゴッティンガムはバランスをとることができるんですね。

2016年にリニューアルした東京大学生産技術研究所のウェブサイトのために写真を撮りました。リニューアルの方針として写真を多めに大きく扱っていこうというディレクションはあったものの、そこに掲載する素材として必要なグラフィックを撮影してほしいという、完全にメディア・オリエンテッドな仕事だったんです。

たとえば国際交流のページに使う素材だったら、外国人と日本人が握手している様子のようなものがイメージされていた。そうじゃなくて生産研をもっとリサーチして、各研究室をテーマに各研究室の研究内容をビジュアル化してストックしていきましょうという提案をしたんです。  ウェブができればそれでいいと思っているクライアントからすると、すごく遠回りじゃないですか。ただ、研究者は長い目で物事を見るから、かなりコンテンツ・オリエンテッドな写真をつくることができました。結果、国立新美術館で開催された「もしかする未来 工学×デザイン」展にも出展されるなど、とても長く写真を使ってもらえています。

自分にとっても作品として誇れるし、クライアントにも長く喜んでもらえるというのは、単純に嬉しいものです。先日は、生産技術研究所に所属する人たちの遠隔会議用背景として使っていいか、という連絡がきました。もちろんすぐにスタジオシンガムが許諾を出すようにしましたよ。

聞き手・文:矢代 真也

Gottingham(ごってぃんがむ) 写真家。アートセンターの企画運営職を経て、2012年よりソロプロジェクトとして活動を始める。国内外のアートセンター、研究開発機関、企業、デザインスタジオとのコラボレーション/コミッションワークを中心に活動する。あらゆる既存の文脈を自身のマナーに引用しながら、「イメージによって、いかに『他者の物語』を再構築できるか」を問いとする。主な個展に「Space for Others」(CAGE GALLERY、2017年)、共著に『クリシュナ—そこにいる場所は、通り道』(アーツカウンシル東京、2018年)など。

矢代 真也(やしろ しんや) 編集者。1990年、京都生まれ。株式会社コルクに入社したのち、15年から『WIRED』日本版編集部で、海外取材を含む 雑誌・ウェブ記事制作、イベント企画・運営などに携わる。17年に独立、2019年にSYYS LLC.を設立。

改変無し:「CC BY 4.0に基づいて『原稿タイトル』(著者名)を掲載」

創造性を高める契約書 写真家ゴッティンガムが示す共同著作のビジョン

<記事番号>
43

<タイトル>
創造性を高める契約書

<サブタイトル>
写真家ゴッティンガムが示す共同著作のビジョン

<クレジット>
文:酒井 瑛作

<リード文>
クリエイターにとって契約書とは、どのような存在だろうか。本来は、発注側(=クライアント)と受注側(=クリエイター)の間で権利の帰属や責任の所在を明確にし、双方の利益を守るための重要なツールであるはずだ。しかしその一方で、法律用語が並ぶ条文や細かな規定の数々を見ると、傍に追いやっておきたくなる厄介な存在でもある。契約書は、クリエイティビティには関係ない、と……。また、業界によっては契約書を取り交わさずに納品まで進めるケースも少なくないという。どうやら契約書とは、クリエイター個人だけではなく、クリエイティブに携わる多くの人にとっても厄介であり、疎ましい存在となっているらしい。
写真家ゴッティンガム(Gottingham)は、そんな契約書をむしろ積極的にクリエイティビティのために使おうと、法律家・水野祐のサポートを受けながら、自らの手でいちからつくり変えてしまった。受注と発注の双方の利益を明確にするだけではなく、クリエイティブのためのポジティブな関係を誘発するパートナーのような存在として、契約書を捉え直したのだ。クリエイターの権利を守るツールから、創造性を高めるツールへ。この転換はいかにして生まれたのか。そして、そこにはどんな可能性があるのか。ゴッティンガムのユニークな作家性と密接にひもづくことで生まれた、新しい形の契約書を読み解いていく。

<本文>
なぜ契約書だったのか?
アートと仕事を分かつ、“踏み絵”をかわすために

2012年、個人のプロジェクトとしてスタートしたゴッティンガム。肩書きは、写真家。アート作品の制作を中心に、建築やプロダクトの撮影、展覧会、広告出版などの領域でも活躍し、作家性と記録性を曖昧にする作品を発表し続けている。プロジェクトを始めるまでは、アートセンターの企画職に就き、アーティストや行政らと協働しながらアートプロジェクトの事業スキームをデザインしていたという。この頃からアートの世界で培った経験を生かす形で、写真のマネージメントにまつわる仕組みづくりをしたいと考えていた。写真家の働き方、作品やお金の扱われ方、そして、作家としてのあり方……ただ撮るだけではなく、それらすべてにかかわる問題を解決する方法を探っていた。最終的に契約書という解決方法に至ったのには、写真家ならば誰もが一度は経験するであろう“分断”の問題に直面したことが大きかったという。

分断の問題は、仕事を始める際の些細なやりとりでも浮き彫りになる。たとえば、クライアントから投げかけられるこんな質問、「あなたは写真家ですか? それともカメラマンですか?」。この問いは、アートと受注仕事を分かつ、ある種の“踏み絵”となり、返答によっては“パーソナルな話をする作家気質の写真家”として扱われ、もしくは、“仕事の話がしやすいカメラマン”として扱われる。発注と受注という関係のもとスムーズに仕事を進めるためには、当然、後者のほうがありがたいというわけだ。事前に相手の立場を確認しておきたいという意図はわからなくはない。しかし、写真家に限ってなぜこんな質問をされるのか。同じモチベーションやコンセプトで撮影できる場合だってあるはずなのに、なぜアートと受注仕事が分断され、それぞれ異なる扱い方をされるのか……。さらにこの“分断”を深掘りしていくと、建築家やプロダクトデザイナーといったほかの職種と比べ、写真家/カメラマンは撮影の仕事を受注する際に契約書を交わさないケースが慣習化していることがわかった。契約を結ばないということは、業界の実態として、暗黙の了解のもと著作者人格権を手放す(=個人の名義の作品としては発表しない)に等しい状況が生まれるということでもある。つまり、アートと受注仕事の分断とは、そもそも写真家としての人格(=アイデンティティ)を否定してしまうような構造があることで生まれている問題でもあったのだ。

“踏み絵”を踏まずとも、アートと受注仕事を分断せずとも、写真そのものへの情熱や表現のクオリティは変わらないはず。そして、写真家としてのアイデンティティを損なわないまま、受注仕事をすることだってできるはず。分断されることで、ひとりのクリエイターとして最大限のクリエイティビティを発揮しきれないことが多かった状況を変えるための仕組みが必要だった。そのためには、発注と受注の関係が生んでしまう意識から変えなければならない。そう考えたとき、「法律」というルールであれば、誰にとっても平等であり、アートでも受注仕事でもないニュートラルな視点から、“意識”に働きかけられるのではないかと気づいた。それに契約書は、仕事の始まりから終わりまでを規定するツールでもある。ならば、お金や権利のみのためだけではなく、写真家のアイデンティティを確立するための規定を盛り込むことで、これまでの問題を解決できるかもしれない。こうして生まれたのが、アートと仕事を両立させながらそれぞれにいい影響を与え合う道を示し、仕事の進め方やクライアントとクリエイター相互の関係を再定義する契約書だった。ある種のアーティスト・ステートメントのように仕事の始めに宣言することで、両者の意識を変え、創造性を高める関係性をつくりあげる。そんな新しい役割を持った契約書の構想が明確になった瞬間だった。それではゴッティンガムは、これまでにない契約書をいかにして実現していったのだろうか。彼の写真家としてのアイデンティティである活動理念とも密接にひもづきながら生まれていった条文をピックアップしながら、本人の言葉とともに見ていこう。

「コラボレーション契約書」条文読解
業務委託を超えた関係性を構築する

・前文、第1条(目的)
甲乙ではなく、コラボレーター

本契約頭書にコラボレーターとして定める者(以下「コラボレーター」という。なお、コラボレーターとなる者が複数の場合は、併せて「コラボレーター」という。但し、「コラボレーター」について「当該」「一部の」「第●条に定める」等一部のコラボレーターを特定する記載を付している場合は当該記載に従い特定のコラボレーターを意味する。)と株式会社ゴッティンガム(Studio Gottingham Inc. 以下「スタジオ」という。)は、コラボレーターがスタジオに対して委嘱する写真家Gottingham(以下「写真家」という。)による作品制作及びこれに関するコラボレーターとスタジオの協働等について、以下のとおり契約(以下「本契約」という。)を締結する。
(前文より抜粋)

本契約の目的は、コラボレーターがスタジオに対して写真家による作品の制作を委託する際の基本的事項について定めるとともに、コラボレーターとスタジオが作品をコラボレーターとスタジオ・写真家各自の領域において最大限に活用することでその利用価値を多義的に高め、さらに両者が共に使用し得る普遍的な資産として維持していくために、一方的な業務の委託という形式を超えたコラボレーションを構築することにある。
(第1条より抜粋)

現在、第1条に記載されている文章は、初期の契約書には記載されていなかったものだ。さらにこの条文には、法的拘束力のある内容は含まれていないと言う。なぜ、わざわざ契約上必要のない文章を追加したのだろうか。

「契約書の雛形をクライアントに見せたとき、書かれている内容はわかるけれど、これはやっていい、これはダメという根拠がわからないと言われて。単にメリット、デメリットだけじゃないように見える、と。契約書の意図を伝えるために、理由づけとなるコンセプトの話を最初に入れる必要があるなと思いました」(ゴッティンガム)

単に業務委託のようなオペレーティブな仕事のあり方を規定するのではなく、クリエイターとクライアント双方の心情面までを考慮した仕事のあり方を規定したいという思いをまず伝える必要があった。契約書によってはっきりとさせたいのは、利益の損得だけではないのだ。そのために第1条には、「目的」という形で法律用語は入れず、一般用語を用いてコンセプトをまとめていった。さらに、契約を結ぶ双方を指す「甲・乙」の呼び名も変えることにした。これは契約書作成のサポートをした水野によるアドバイスがあったからだと言う。

「単なる受発注の関係ではないかかわり方を尊重したいと水野さんが言ってくれて、業務的な甲・乙や委託者・受託者といった表記はやめましょうという話になったんです。それで自分のことを『スタジオ』『写真家』、相手のことを『コラボレーター』とする新しい名称を提案してくれました」(ゴッティンガム)

「コラボレーター」という表現は、ゴッティンガム自身の活動理念から導き出されたものだ。契約書を作成する以前の活動当初から「コラボラティブ/コミッションワークを中心に作品制作を行なう」という姿勢を貫いてきた。いわゆる「パーソナルワーク」という概念はゴッティンガムの活動においては存在せず、基本的にコラボレーションを前提に、他者と協働することで作品をつくっていくのだ。ここから契約書においても、双方のフラットな関係性を表す言葉として「コラボレーション」が使われるようになり、契約書全体のコンセプトを表すコピーのような役割を担うようになっていった。水野は、こうした言葉を契約書に盛り込む意義についてこう語る。

「新しいことに挑戦している個人や企業の契約書は、将来的にその分野のスタンダードになっていく可能性がありますし、取り組みの象徴としてそこで使われる言葉が概念として定着していくことがあるので、契約における言葉の選び方は重要なんです。『受託か/作品か』みたいなわかりやすい二元論が崩壊しているなかで、ゴッティンガムのような受託と作家性を両立するタイプのアーティストや作品がもっと増える可能性がある。それを踏まえて『コラボレーション』とか『コラボレーター』という言葉で、業務委託における委託者と受託者の関係性をフラットにしたいと思いました」(水野)

・第2条(定義)、第3条(制作)
「素材」は、「作品」でもある

(1)「本作品」:本契約及び別途コラボレーターとスタジオが協議により定める仕様に基づきスタジオが制作しコラボレーターに納品する作品を意味する。本作品は、写真家が撮影して制作する写真作品であり、プリント等物に固定されている表現に限らず、写真家が撮影した写真の具体的な表現内容を含む。

(3)「本データ」:本契約に基づきスタジオがコラボレーターに納品する本作品のデータを意味する。
(第2条より抜粋)

1.スタジオは、本作品を制作し、コラボレーターに対し、本データを納品する。以下、本項に基づく本作品の制作業務を単に「制作業務」という。
(第3条より抜粋)

第2条では、写真家の手から生まれた著作物の扱い方について記されている。とくに1項では写真家が制作するのは写真作品であると明確な定義がされているのが特徴的だ。そして納品する本データのほかに、あえてオリジナルプリントの存在を明記した。どういうことだろうか。

「コラボレーターの文脈と自分の文脈を整理することが重要だと思いました。写真は、相手の文脈から見ると広告素材、記録写真かもしれない。ただ、僕の文脈では、オリジナルプリントを複写して、商業利用してもらっているという認識。そういう風に分けて考えたほうが、写真家としての自立性をキープできる気がするんです」(ゴッティンガム)

広告や雑誌などの受注仕事では基本的に「素材」として扱われがちな写真でも、写真家にとっては別の用途がある。そのとき、あらかじめオリジナルプリントの存在を示すことで、「素材」であり「作品」でもあるという別の視点を与えようとしているのだ。結果的にデータを納品することは従来と変わらないため、クライアントにとって大きな違いや影響はないかもしれない。しかし、写真家にとって自らの文脈を確保できるかどうかは、写真に対して責任を持つという意味で重要な点だと言う。

「もし『素材』としてしか扱われないのであれば、その写真は広告の世界のみで評価されてしまうことになるかもしれない。ただ、自分にとってそれは第一義的な評価ではないし、すべてではないと感じていたので、そういったときにオリジナルプリントの存在は、ひとつの抑止力になると思うんです」(ゴッティンガム)

抑止力とは、あくまで自らのクリエイションに責任を持つという本来の目的を思い出させる戒めのようなもの。また、写真の特性上、さまざまなメディアに掲載され波及していくため、クライアントと写真家のみの関係では測れない評価が生まれる可能性もある。そのとき、オリジナルプリントの存在は、結果的に「素材」ではなく、「作品」として評価されるためのチャネルを確保するための拠りどころにもなるわけだ。さらに規定としても、基本的に著作権の譲渡はしないことにしている。

「著作権を譲渡してしまうと、自分の文脈で写真を見ることが難しくなってしまうんですね。もちろんコラボレーターから報酬をいただいて制作するわけですが、僕にとってはいわば折半している感覚に近い。つまり、著作権を渡さずに、商業利用の許諾を広めに設定しているぶんの金額は、自分で補っているという感覚です。一方で、ゴッティンガムの文脈で作品を発表してもらえたらうれしいと思える人が増えたらいいなとも考えています。コラボレーターと一緒につくった作品として発信することで、相手にとって発信のチャネルがひとつ増えたと感じてもらうことが理想です」(ゴッティンガム)

・第5条(対価等)、第8条(ライセンス)
費用を折半し、クレジットをシェアする

3.本契約当事者となるコラボレーターが複数の場合は、各コラボレーターは、スタジオに対して、連帯して、本契約に基づき発生する支払債務その他の債務について負う。
(第5条より抜粋)

1.スタジオは、コラボレーターに対し、別紙に定める【フルライセンス/フルシェアライセンス/サブシェアライセンス】というライセンス種別に応じて、本作品の利用を許諾する。コラボレーターは本条次項以下の定め及び別紙に定めるライセンス種別の定めに従い、本作品を利用することができる。

3.コラボレーターは、第2項に定める本作品の利用にあたっては、本クレジットを表示又は掲載しなければならない。
(第8条より抜粋)

第5条で規定されているのは、複数のクライアントがいた場合、費用を折半できるというもの。とくに建築の撮影などでは、経費がかさみ予算を超えてしまうと、1社のみでは支払えない場合がある。そんなときに、数社で折半することができるオプションをつくった。

「たとえば、施主、建築家、施工業者、インテリアメーカーの4者が写真を使いたいということであれば、そのぶんみんなで折半するというシェア・カルチャーに近いようなものです。さらに、どう分担するかシェアの方法のオプションもいくつか用意しました」(ゴッティンガム)

多くの関係者が存在する建築などの案件では、もともと費用を分担する文化があるが、ゴッティンガムはそこに「コラボレーション」の思想を導入し、ともに作品をつくり上げるパートナーとして捉えた。さらに第8条では、クレジットの記載について触れ、“コラボレーション作品”として生まれた著作物の出自を明確にしようとした。

「自分の名前とお金を払ってくれたクライアントの名前をクレジットに載せて、コラボレーションした証をどこかに残しておきたかったんです。最初は�くらいしか使えないと思ったのですが、アートの文脈で使われている『Image Courtesy』のクレジット表記のほうが、複数の名前を並べるときに使いやすいんじゃないかと気づいたんです」(ゴッティンガム)

一般的にアート領域で用いられる場合は「Image courtesy of アーティスト名&ギャラリー名」といった表記で作品の著作者や著作の管理者などを示すが、ここでは「Image courtesy ofクライアント名&Studio Gottingham」と、著作を管理する自身のスタジオと、協働した関係者の名前が入ることになる。業務や職種によってクレジットするのではなく、あくまでこれまでいっしょに制作してきた仲間としてクレジットすることを目的としているのだ。ただ、この表記はあくまで法的な範疇では規定できないため、クライアント側は表記するかどうか選ぶことができる。この点は、著作権法の認識が時代とずれてきているかもしれないと水野は話す。

「著作権法は、ひとりのアーティストが著作物を生み出すことを前提としている。共同著作物のように複数の人がいっしょに著作物を作成する場合についても規定していますが、あくまで例外的なものとしての位置づけです。ただ、コラボレーションによって多人数が共同して著作物を作成するケースが増え、あたりまえになってきているいま、新しいコンセンサスが必要になるかもしれません。そうなるとクレジットの表記の方法も新しいものが求められてくるのは、ある意味当然とも言えます」(水野)

上記の著作権法の適用範囲やコラボレーターの使いやすさを考慮し、クレジットの表記方法はいくつかパターンを用意し「フルクレジット」「ミニクレジット」と選択できるようにしている。たとえば、フルクレジットであれば、「写真作品タイトル/撮影年あるいはプリントの制作年/著作者/Image courtesy」を表記する。なかでも「写真作品タイトル」は、ゴッティンガムの活動理念においては重要になるクレジットだ。

「現状、著作者人格権のなかの氏名表示権に含まれているのは氏名の表示のみで、作品名の表示はその範囲には入っていないらしいんです。ただ、クレジットの記載で本当に重要だと思うのは『これが自立したイメージなんだ』と示すこと。作品に名前があるとないとでは、素材と見られるか、作品として見られるか大きく変わってくるんです」(ゴッティンガム)

ここでも一貫して、写真家や写真の自立性を確保するための方法を探っていた。そして、クレジットを連名にすることで、アーティストとしての文脈にもクライアントが興味を抱く機会となればいいとゴッティンガムは考えている。相互にとって写真の価値を向上させていくための方法を考える場として契約書の規定が存在していること。それがゴッティンガムが、これらの条文をつくるうえでもっとも大切にしていることなのだ。

“Untitled (Rose Charlotte Perriand #2)”, 2019 ©Gottingham Image courtesy of Rose Universe and Studio Gottingham

よりよいクリエイティビティを発揮するために
相互のコミュニケーションを誘発するツールとしての契約書

今回ここで紹介したのは、共同著作があたりまえとなった時代においてコンセプトモデルとなり得るような契約書のあり方だった。そして、ゴッティンガムが契約書上で提唱する「コラボレーション」を前提とした制作手法は、契約の規定によって明確な形を与えられたビジョンでもある。そのため現状は、この契約書に合致しないクライアントも当然出てくるだろう。ある種の“ビジョンと現実の差”を、どのように捉えているのだろうか。契約書の存在意義に立ち返り、ゴッティンガムは答える。

「実は、この契約書でクライアントと写真家双方にとってメリットがあるのはクレジットの部分だけなんです。そのほかは、基本的にすでに写真家が持っている権利だから。なので、お互いの文脈を尊重し合いましょうという確認ができれば、本当は契約を結ばなくてもいいんです(※1)」(ゴッティンガム)

何より重要なのは、契約書の存在が双方にとって煩わしいものではなく、「やりたいこと」を明確にし、ともにゴールへと近づいていくためのコミュニケーションツールとなっていること。ゴッティンガムにとって契約書とは、アートと受注仕事、クリエイティブと法律と、これまで分断されてきた事柄をあらためてひとつの視点から捉え直すことで、発注側(=クライアント)と受注側(=クリエイター)の間に新しい関係=共犯関係を生むための、方法論のひとつなのだ。

ただし、これはあくまでもゴッティンガムの活動理念と深くひもづいた“特殊例”として生まれた契約書であることも忘れてはならない。クリエイターの数だけ、あるいは、法律の数だけ、クリエイティビティに寄与するための契約書のつくり方があるはずだ。契約書の“雛形”は、ゴッティンガムが提示してくれた。ここからどのようにアップデートするかは、あなたの「やりたいこと」次第だ。

次ページよりゴッティンガムおよび水野の許諾を得て、「コラボレーション契約書」の雛形(2020年1月時点のもの)を掲載する。

<プロフィール>
Gottingham (ごってぃんがむ)
写真家。アーカスプロジェクト実行委員会のスタッフなどを経たのちに、ソロプロジェクト「Gottingham」として活動を開始。国内外のアートセンター、研究開発機関、企業、デザインスタジオとのコラボラティブ/コミッションワークを中心に作品制作を行なう。

水野 祐 (みずの たすく)
弁護士(シティライツ法律事務所)。クリエイティブ・コモンズ・ジャパン理事。Arts and Law理事。東京大学大学院人文社会系研究科・慶應義塾大学SFC非常勤講師、リーガルデザイン・ラボ主宰。グッドデザイン賞審査員。著作に『法のデザイン 創造性とイノベーションは法によって加速する』(フィルムアート社)など。

酒井 瑛作 (さかい えいさく)
ライター/エディター。1993年生まれ、郊外育ち。主に現代写真、ファッション写真について執筆。「SIGΣAFAT」『Pen』『IMA』などのアート、カルチャー領域媒体で活動中。

<脚注>
※1 契約書の雛形をコラボレーターと一緒に確認した上で契約は結ばず、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスを適用することで、コラボレーターとともに著作権を共有し、作品を発表した案件もある。

<参考文献>
なし

改変無し:「CC BY 4.0に基づいて『原稿タイトル』(著者名)を掲載」

https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja

これからの時代のオリジナリティについて話そう 〜 “著作性”とは何なのか?

https://note.kohkoku.jp/n/n0d06ee34dfc4

美術家 原田裕規 × 写真家 Gottingham
『広告』著作特集号イベントレポート

3月26日に発売された雑誌『広告』著作特集号にかかわりの深い方々をお招きし、オンラインでのトークイベントを開催しました。今回は、6月12日にSHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS(SPBS)の主催で行なわれたイベントレポートをお届けします。「写真」という表現手法で作品を生み出している美術家の原田裕規さんと写真家のGottingham(ゴッティンガム)さんをゲストに迎え、編集長の小野を交えながら、これからの時代における著作性について語り合いました。

似たもの同士、ふたりの作家

小野:原田さんとゴッティンガムさんは、もともとお知り合いなんですよね。自己紹介というより、お互いに紹介してもらうほうがいいかなと思うのですが、まず原田さんからゴッティンガムさんについて、ご紹介いただけますか? 
原田:ゴッティンガムさんと最初にお会いしたのが、2019年。恵比寿のCAGE GALLERYというギャラリーでゴッティンガムさんが展示をされていて、そのすぐあとに僕が展示することになったのがきっかけでした。最初は商業写真を撮られている方なのかなと思ったんですが、作品を知るにつれて、いい意味でひとつのカテゴリーには納まらない曲者だということがわかってきました。今日はその曲者性についても掘り下げていけたらいいなと思っています。
小野:意外とおふたりは古い仲ってわけでもないんですね。でも、どちらも話し出すと長くなる印象があって、気が合いそうと思っていました(笑)。ではゴッティンガムさん、お願いします。
ゴッティンガム:共通の知り合いが多く、原田さんの話はいろいろと聞いていたし、原田さんが書かれた文章も何度か読む機会があって、出会う前にも知った気になってました。佐藤拓真さんというアーティストが2017年に『WYSASSS』という作品集を出したんです。そのスペシャルバージョンに、僕と原田さんが寄稿文を寄せていて。そこで妙な親近感というか、いっしょのプロジェクトに参加した気持ちになっていました。
原田:僕もその時期から、ゴッティンガムさんの名前を聞く機会が増えてきて。僕は2017年から写真のプロジェクトを始めたんですが、そのころからだんだんとお互いの活動領域が近づいてきて、今回の『広告』でいよいよ重なったような感じがしました。
ゴッティンガム:「心霊写真」(※1)という原田さんの作品タイトルや、テキストで見るメタ的な視点などからの想像で、強い意志をもっていて、厳しい方なのかなって思ってたんですよね。でも実際会ってみると、何でも受け入れてくれるような人でした。
作品にオリジナリティはある?ない?
小野:今日のトークテーマは、「これからの時代のオリジナリティについて話そう」となっています。そこから「著作性とは何なのか」を考えていきたいと思います。いきなりですが、オリジナリティなんてないという前提に立つと、ものづくりの現場では先行する作品からインスピレーションを受けたりオマージュをしたり、過去との対話、つまり“コラボレーション”がつねに行なわれているんじゃないかと思うんです。
実は今回の著作特集号にも、コラボレーションというキーワードがある気がしています。ゴッティンガムさんは、契約書のなかではっきりと「コラボレーション」という言葉を使っていますよね。原田さんも、捨てられるはずだった他者の写真を使って作品をつくっています。そこでおふたりに、コラボレーションというものをどのように捉えているのか、まず聞いてみたいと思います。
ゴッティンガム:オリジナリティがないという前提に立つと、という話ですが、僕はある、と信じてるんですよね。
小野:おお、オリジナリティをどういうふうに捉えられているんですか?
ゴッティンガム:何だろう……木を見て森を見ず、という言葉をあえて使ってみます。森を見ると木の葉なんてちょっとの違いでしかなくて本質が見えないと思われるけど、どんどん深堀りして葉っぱの細胞レベルまでいけば、なんらかの決定的な相違が見えてくる。しかも、それは数分前とあとでも違う。科学の世界だと、細胞を見ると生態系までわかるって言うじゃないですか。そんなふうに小さな単位のオリジナリティを追求して見ていくと、逆説的に個人を超えて人間とは何か、が見えてくる。
小野:なんかいきなり難しい話になりましたね(笑)。作品制作にあてはめるとしたら、どんな考え方になるのか聞いてみたいです。
ゴッティンガム:巨人の肩に乗るというか、誰かのオリジナリティを誰かがまた更新していくみたいな。そういう繋がりのなか、過去につくられたものを更新していった結果、生まれるものが作品なんじゃないでしょうか。そしてそれはほかと比べると、やっぱり差がある。
小野:いきなりポンと作品が生まれたわけではなくて、過去から少しずつ差分のあるものが生まれていったと。そのひとつがゴッティンガムさんの作品だったとして、それらが集まっていくとゴッティンガムさんのオリジナリティが見えてくるってことですかね。
ゴッティンガム:そうですね、そうかも。
小野:ゴッティンガムさんは、すべての作品を自分ひとりではなく、コラボレーションしながら制作していると捉えているのが特徴です。そしてその意思表明として、著作特集号の「創造性を高める契約書」という記事にも掲載している契約書をつくりましたよね。そのなかで、法律的な規定だけではなく、一方的な業務委託の形式を超えたコラボレーションを構築する、という目的を提示しています。コラボレーションについては、どう考えていますか?
ゴッティンガム:普段の自己紹介では、コラボレーションだけではなく、コミッションという言葉もセットで使っています。いわゆるコミッションワーク(委託制作)が、コラボレーションワークにもなり得るんじゃないか、という仮説を持っているからなんですが。また、契約書では一般的に発注者やクライアントと記すところを、“コラボレーター”としています。これは法律家の水野佑さんのアドバイスによるものですね。



ゴッティンガムさんのコラボレーション契約書(一部抜粋) 


作者性を曖昧にする共同制作

小野:原田さんは、自分で何かをつくるというよりは、他人が撮影した写真と対話することが作品になる。他人の著作物とも言える写真とコラボレーションしているな、と思ったのですが、そのあたりどういう意識で制作されているんでしょうか?
原田:もともと僕の場合は「ここが美術の外縁だ」と言える部分を追求していたところがあって。美術としては“ぎりぎりアウト”のものに興味があって、最初に取り上げたのがクリスチャン・ラッセンでした。ラッセンは主にアートの領域からは「イラストだ」「デザインだ」と揶揄されることが多いのですが、そのことを言い換えると、ラッセンの絵にはある種の作者性が認められない、それゆえに“アウトだ”とされていたと思うんです。そう考えたときに「作者性」というキーワードが浮かび上がりました。
その次に目をつけたのが「写真」全般です。とくに興味深いと思ったのが、現代アートの世界でファウンド・フォトと呼ばれている実践で、それは作者ではない誰かが撮った写真に対して、異なる文脈をつけて提示し直すというもの。そのときに当然「それは創作なのか?」ということは問われてもおかしくないと思うんですが、なぜかそういう実践に対して言葉が追いついていないような気がしたんです。
小野:たとえばどういうことですか?
原田:映画だと、監督や音楽家やデザイナーなどいろんな人が含まれつつ、ひとつの大きな作品を重層的につくっています。一方でアートの場合は、作者という存在の占める地位が比較的強く、それが先ほどのラッセンやファウンド・フォトの問題にも表れていると思いました。
ですがいまはアートだけに留まらず、社会全体において異なる主体がいかに共生していくのかは、具体的な課題になってきています。ウィルスとの共生だけでなく、政治や自然災害など、いろいろな場面で「コラボレーション」のあり方が問題になっているなと。なのでいまやっと、僕自身もコラボレーションという問題に実感をもって取り組み始めている気がしています。
小野:なるほど。美術界の端っこを追い求めた結果、たまたま出会ったのがコラボレーションで、さらに時代がそういうものを必要としているんじゃないかと。
オリジナリティをはかる純粋/不純という尺度
小野:原田さんはオリジナリティについてはどう考えていますか?
原田:ゴッティンガムさんの「オリジナルはあると思う」という話を聞いて、いきなり核心からきたな! と思ったんです。先ほどは普通に話を進められていましたが、そもそもゴッティンガムさんっていわゆるわかりやすい「アーティスト」ではないですよね。作者とみなされる主体と作者ではないとみなされる主体を行ったり来たりしているのがユニークで、そのときにこの人はそもそも「オリジナル」について懐疑的であるか肯定的であるかは、僕にとっては謎だったんです。それと関連して、以前ゴッティンガムさんとお話をしていたときに、「ファインアート」の話をされていたのがおもしろくて。ゴッティンガムさん、その話をしてもらえますか?
ゴッティンガム:著作特集号の記事にも書いてあるんだけど、「商業写真家ですか? 芸術写真家ですか?」と質問をされることが多かったんです。なんで人がそういう問いを立てるかというと、美術作品とは、自発的に個人の内側から湧き出たものという認識があるからで、商業と区別してるからなんですよね。その認識をあらわしているのが、純粋芸術(ファインアート)と呼ばれるものなんです。でも現代で、内向きな情動みたいなものだけを出発点に作品制作を続ける作家って、どれほどいるんだろう? 美術史上でも、社会や他者に関与するような表現やそれを指す言説や活動形態もあるし、なにかしら呼応し合うものがあるわけで、コラボレーションしている。そのとき、「純粋」って言えるのかな、と。
原田:ファインアートについては、純粋/不純という尺度がある気がするんです。先ほどのラッセンの場合は端的に“不純なもの”と扱われていたところがあって、美術としては「純度が低い」と、まるで穢れのように忌み嫌われていました。そしてそれって、いまでいうとウイルスのような存在に対して人々がもつ不浄の感覚にも通じるニュアンスがあると思っていて。
ゴッティンガム:そうそう。
小野:純度が高ければ、オリジナリティがあると思われていると。
原田:そうです。僕は子どものころはずっと油絵を描いていたんですが、美術の先生に「こうしろ」と言われて画面に筆を置かれる場面がたまにあって。それが自分にとっては耐えきれない出来事だったんです。ある意味でキャンバスが穢れてしまったと感じて、絵を塗りつぶしてしまったこともありました。さすがにいまは「若かったな」と思うのですが(笑)。ファインアートにおけるコラボレーションを考えるときに、あの強い拒絶反応は、ついつい思い出してしまう感覚です。
それに対してデザインの場合は、たとえばグラフィックデザイナーと写真家が共同して雑誌をつくることをわざわざコラボレーションとは言わないくらい、それが自然に成り立っている。仮に純粋芸術の領域でコラボレーションが成立するとしたら、ある純粋なものと別の純粋なものが共生できる思考の枠組みが必要なんじゃないでしょうか。僕の場合は、美術のなかでどういうふうにコラボレーションの形態をアップデートできるのかが、自分自身にとっても大きな課題なんだなとあらためて思いました。
作品はどこからやってくるのか
作者の経緯をあらわす“来歴”
ゴッティンガム:著作特集号の打ち合わせをしていたとき、作家主義と作品主義の違いの話がおもしろかったんです。オリジナリティを考えるときに、作家主義なのか作品主義なのかで、捉えてるものが全然違うんじゃないのかなって思いました。
小野:作品が完成した瞬間に作者の手を離れて独立するのか、もしくは、俺がつくったんだよと署名が入ることで、つねにつくった人たちの存在が作品について回るのか。当然、両面あると思うんですけど、自分がつくったぞということが重要なのか、作品が独立していることが重要なのか。おふたりはどういう考えをお持ちですか?
ゴッティンガム:すごく難しい質問で、その問題について僕は考えない日はないってくらい考えてます。もちろん、できあがったものにはオリジナリティがあってほしいと願っていますが、それは“親”の心理としては当然ですよね。仮に僕自身がオリジナリティのない人間だとしても、誰かと組んだり、何かの条件でつくられたことで、オリジナリティがある作品が生まれればいい。いまもまだ心が揺れ動いてるんですけど。
小野:ゴッティンガムさんの契約書では、しっかりと著作者のクレジットの表記に関するルールを提示していますよね。そのとき、作品と著作者が結びつくことの重要性ってどのくらい考えられてます? クレジットをつけるいちばんの理由って何でしょう?
ゴッティンガム:さっきの話と矛盾するところがあるかもしれないけど、僕は作品と著作者は紐づけておきたいタイプ。それは、写真は文脈で見え方が変わるメディアなのと、自分のキャリアパスが王道ではないとか、そういうところからくる部分もあるのかもしれないです。
ただ僕が示しているクレジットの表記には、著作権のためだったり作品と著作者の関係性を示す以上に、写真がどこから生まれてきているのかという“来歴”を表現したいからでもあるんです。写真ってどうしてもいろんな場所でいろんな使われれ方をするんだけど、どういう経緯で誰から生まれてきたかを残しておきたい。
小野:最初のオリジナリティの話の「過去を更新して作品をつくる」という部分が、クレジットの“来歴”と近い気がして、おもしろいですね。たとえば、論文は過去のものを読んで新しく書き足したり反論したりしていく。なので、名前がどんどん積み重なっていく文化がある。そういうのに近いのかなと。ある種、歴史に名を刻むというよりは、つくったものへの責任として、署名をしているんですかね。
ゴッティンガム:そうですね。やっぱり作品を生んだ人の名前を残すことで、責任を持ちたいみたいなところはありますね。
作品を規定するものは何か
誰を作者と呼ぶべきか
小野:原田さんは作品と著作者の関係性ってどんなふうに捉えられていますか? 捨てられてしまった写真を集めて作品をつくっていますよね。
原田:僕の場合は、そもそも作品と呼んでいいのか、という疑問を投げかけているところがあります。「写真の山」というタイトルで、引き取り手のない写真をこれまでに何度か発表しているのですが、展示をするたびに「作品」だったり「資料」だったりと扱いを変えてきたんですね。



原田裕規「写真の山」(2017年〜) Photo:Katsura Muramatsu


また別の話で、数年前にアートアーカイブセンターで働いていた時期があったんですが、そのときにある写真作家のプライベートな写真を大量に目にしたことがありました。それを見て、写真家が撮ったプライベートフォトというのは、扱い用によっては「作品」にも「資料」にもなりうる際どい存在だなと思ったんです。
小野:確かに。
原田:しかも、明らかにその人の作風とは異なっていても、「未発表作品です」と言って発表することが制度的には可能になっている。アーティストが一般の人々の写真に対して同じ手つきで振る舞うと“ファウンド・フォト”と都合よく言われたり、キュレーターの場合だと”発掘“と都合よく言われたりします。ですが、写真の撮影者が誰であるかはもちろん、誰がその写真を「作品」とみなしたのかも重要な情報になってくると思うんですが、いまのところキャプションに明記されるのは「作品名」だけですよね。この状況をどう考えて、制度のレイヤーを増やしていくのか。
僕個人で言えば、ファウンド・フォトという言葉を使わないようにしていて、その判断保留の状態をできるだけ長く保ちながら、その決定のプロセス自体を作品として見せていきたいと思っています。
小野:原田さんがつくっているものが仮に作品ではない場合は、なんて呼ぶのか気になります。
原田:感覚的には「成果物」くらいで、やっぱり「作品」という言葉には価値判断が含まれているじゃないですか。「これは作品だ」と言ったときに、“それほど素晴らしいもの”というニュアンスが含まれてきてしまうので。でも感覚的にはもっとフラットなものという気がしています。
オリジナリティは先人の歴史を引き継ぐ過程から生まれる
小野:僕自身はプロダクトデザインをしたり、『広告』という雑誌をつくったり、もともと学生時代は建築をやったりして、ずっとものづくりをしてきました。当然オリジナリティを追求する戦いがあって、世の中にないものをつくりたいという欲求があるんですね。
とはいえ、ものをつくることの目的に、オリジナリティを求めることだけがあるわけでもないなとも思うんです。目的は別にもあるなと。これまでオリジナリティの話ではあったんですけど、おふたりが何かを生み出すときのいちばんの目的は何なのか、ここでお伺いしてみたいです。
原田:安っぽい言い方になってしまいますが、実感としてはバトンを渡そうとしている気がします。自分が美術を始めたきっかけも、ある美術館で見た作品に心を動かされて、「世界にこんなものがあるんだったら、無視するわけにはいかない」みたいな、タスク的な感覚を持ったんですが、つまり動機としては外的な要因が大きいです。
ある共有されたビジョンを誰かから受け取って、自分の形にアウトプットし直して、誰かに渡す感じ。そういう一連の運動のひとコマを担っているような感覚があるので、自分がやっていることがオリジナルであるという実感よりは、誰かから受け取ったものを自分なりに変換して出し直しているような感覚をもっています。
ゴッティンガム:それ、同感。
小野:おもしろいですね。動機として有名になりたいとか儲けたいとか、何か世の中を驚かせたいみたいな俗っぽい気持ちも普通はあって、僕はそういう気持ちも結構あるんですけど(笑)。そういう人が多いなかで、バトンを渡すって少し達観しているというか。原田さんが主体となっているというよりも、どこか引いて見てますよね。
原田:確かに……。でも、先行する何かからの影響なしに、ものをつくる体験ってあり得るんですかね? たとえば作品をつくり始めるきっかけも、先行する何かに対する感動がないということがそもそも想像しづらくて。みなさんはどんな感じなんでしょう?
ゴッティンガム:やっぱり僕も憧れから育ってきた人間だし、いまも誰かに憧れたいという気持ちは持っています。あとはひとりで生きているのではなく、関係性のなかで生きてるから、よりどころとして繋がりや文脈はすごく意識していて。バトンを渡すという意識を僕に置き換えるなら、自分の活動や作品を置きたい文脈のなかで、どのように表現に向き合い、批評する/されるか、ということかなと思います。憧れる先人たちがいて、それを未来に繋ぐ人が自分という感覚。
原田:やっぱりゴッティンガムさんも、引いて見てるところはあるんですね。
小野:いま、参加者の方からチャットでコメントがきています。「バトンを渡していくサイクルのなかにいて、個人レベルの小さな変化が未来の作家や作品に組み込まれていくことがあると思いました」。確かに、そうですね。
原田:オリジナリティって言っていることも、バトンそのものよりは、受け渡し方の身振りみたいなものに見出すべきかもしれないですね。バトンの持ち方や渡し方が独特だけど、持っているバトン自体は変わらないみたいな。でも、世の中的には、どちらかというとバトンそのものがオリジナリティだと思われている気がするんですよね。「感性がいいね」とか「よくそんなこと思いついたね」とかって、つくり手なら誰でも言われた経験がある言葉だと思うんですけど、実際にはひらめきよりも、そのアウトプットの仕方でオリジナリティを追求している気がします。
ゴッティンガム:確かに撮影のライティングとかプロップの使い方とか、全然新しくないし、オリジナリティがないものかもしれないけど、それを何に対して使ったのかということでひねりが生まれて、オリジナリティが見えてくるっていうのはありますね。
小野:バトンの受け渡し方とか制作の過程にこそ、オリジナリティが宿っているわけですね。
このまま夜更けまで話せそうですが、時間が来てしまったので、残念ですが本日はこのあたりで終了とさせていただきたいと思います。おふたりの活動も、みなさんぜひご注目ください。ありがとうございました。



文:酒井 瑛作



原田 裕規(はらだ ゆうき)
美術家。1989年山口県生まれ。社会の中で「とるに足らない」とされているにもかかわらず、広く認知されている視覚文化をとり上げ、議論喚起型の問題を提起するプロジェクトで知られる。主な個展に「One Million Seeings」(KEN NAKAHASHI、2019年)、「心霊写真/ニュージャージー」(Kanzan Gallery、2018年)、主な著作に『ラッセンとは何だったのか?』(フィルムアート社、2013年)など。

Gottingham(ゴッティンガム)
写真家。1982年生まれ、東京在住。国内外のアートセンター、研究開発機関、企業、デザインスタジオとのコラボレーション/コミッションワークを中心に活動する。あらゆる既存の文脈を自身のマナーに引用しながら、「イメージによって、いかに『他者の物語』を再構築できるか」を問いとする。最近の展覧会に「東京大学生産技術研究所70周年記念展示 もしかする未来 工学×デザイン」(国立新美術館、2018年)、共著に『クリシュナ—そこにいる場所は、通り道』(アーツカウンシル東京、2018年)など。
酒井 瑛作(さかい えいさく)
ライター/エディター。1993年生まれ、郊外育ち。立教大学社会学部卒業後、2017年よりフリーランスのライター/編集者として活動。主に写真家へのインタビューを行い、現代写真、ファッション写真を中心に記事を執筆。その他、ウェブメディアの立ち上げ、アーティストコーディネーション等に携わる。

脚注
※1 「心霊写真」……原田裕規さんが2012年より開始したプロジェクト。2017年以降は、引き取り手のない膨大な数の写真を収集しながら、そこに寄り添うような視点で作品を生み出している。
CC BY-ND 4.0(表示-改変禁止4.0国際)
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